大分観光壁//「世界は届けい・セカイハトドケイ―大分の中心で家内安全を叫ぶ」

「観光」とは、「光を観る/観せること」、つまり「地域のすぐれたものを観る /観せること」。大分観光壁では、大分のすぐれものが現代作家の新しい視点を通して、美術作品へと昇華し、鑑賞者に呈示されます。ミヤケマイは、最も小さい家、会社、郷土などという単位から平和(家内安全)を実行し、世界に鳩(平和)を呼び戻そうという大分発のプロジェクト「世界は届けい・セカイハトドケイ」を通じて、アトリウムの西側スペースを「大分の光」で充たします。

会期 : 常設展示(2015年〜)
会場 : 大分県立美術館 OPAM

撮影 : 繁田諭

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世界は届けい・セカイハトドケイ
WORLD could be a safe place CLOCK
大分の中心で家内安全を叫ぶ

全ての諍いの口火も世界平和の種も家にある。恋をしている時、家族が平穏無事に仲良く暮らしている時、快適な戻れる家がある時、世界中の人に親切に出来るように思うのが人情、つまりその逆もまたしかり。国家や世界のように、とてつもなく大きく感じるものも始めは小さな集団から始まる、人間社会の最小集団は家族又家から全ては始まる、何気なく毎日見ているリビングの時計に刻まれる、刻々と過ぎて行く時間は平和へのもしくは終焉への時限爆弾のようだ。鳩時計は家から平和の象徴の鳩が出て来る。この「世界は届けい・セカイハトドケイ-WORLDcouldbeasaferplaceCLOCK/大分の中心で家内安全を叫ぶ」は、まず最も小さい家、もしくは会社、地域郷土などという単位からの平和(家内安全)を実行し、家に鳩(平和)を呼び戻そうというコンセプトに賛同してもらった人のサポートとコミットメントを物質化する作品です。

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水府
覆水難収・フクスイオサメガタシ
Still Waters Run Deep

人体の90%は水である、我々胎児の時羊水に浮かび、そして地上にでてからも、水源のないところでは一日たりとも本来は生きて行けない。家から10分のところにコンビニがあり、5分のところに自販機があり、目の前のパソコンのAmazonからいつも容器に入った水が届けられる私達は、そんなことを忘れてしまっている。海の傍、川の傍、滝の傍に行くと体がそこは空気の密度が濃く、いいところだと自然と反応する。温泉や海、湖に浮かぶ時、人は地球と自分がつながっている事を感じ修復されて行く自分を感じる。当たり前のものが当たり前で無くなる前に、目を凝らしてみないと、耳を澄ませてみないと、息を凝らして探さないとならないものがある。大きな雑音に紛らわされずに、人の意見に影響されずに、触れて感じて事実を切り出さないとならない。
水に流してしまってはいけないことがここにはある。

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もどる場所があるということ
Home Sweet Home

木を見て森を見ず、森を見て木を見ず、どちらも不完全で、神は細部に宿るというが、近づかないとディテールは逃げて行く。俯瞰で見ないと全体図は見えて来ない、見るという事ほど人間にとって困難なものはない。見たといってそれが真実で全容であると安直に過信してしまう。所詮私達が見たとおもっているものは、ほんの一部であり、往々にして脳に改竄されているのだから。

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おかえりなさい。
Where All Gods Have One Name

大分は自然崇拝、神道、仏教、キリスト教と様々な神が色々な時間の通過を経て、層のように重なり共存しているところが日本的だ。それは日本の寄物陳思、八百万の神のおおらかで、どん欲で、そして本質を見極める目と心を表しているように思える。大分の切子燈籠は現世を去った祖先や愛する人達が迷わず、家族の元に戻ってくるための道しるべとして家にお盆の期間飾られる。それはその姿は森の木と、木から作ったパルプ(紙)によって作られた巨大な依代であり、また魂の宿る森のように見える。それは生命が戻って行くところであり、魂の戻る家であり、心が戻る古里なのではないかと思う。迷わず皆がどこかに帰れるようにと祈りを混めて。