あまりにロココ的な、あるいは死の芳香のする日常 −ミヤケマイに

新見隆(武蔵野美術大学芸術文化学科教授)

[ 終わりのないバロック ]

ミヤケマイとの出会いは、私にとってひとつの事件であり、絵画とは何かを考えさせられる、大きな契機になった。

ミヤケマイは、美術界がそれなりに持っている地縁とはかなり離れたところから、彗星のごとく登場した才能である。

ただまたいっぽうで、日本画の伝統を現代的に解釈し直した作家たちと彼女が同じように類されるのに、容易には同意できないでいる私がいる。それは、作品の優劣の問題ではなく、作家としての体質のちがいといったらいいだろうか。

ミヤケマイの「日本画」は、たしかに、彼女の気質、血脈に根づいたものであって、戦略ではけっしてない。

端的にいって、私が彼女の作品からまっさきに受けとったのは、死の芳香だった。

しかもそれらは、テーマとして登場はむろんしないし、巧妙に精緻に、画面の空気のなかに、それとは分からないように封じこめられてある。

よく知られているところだが、彼女よりちょっと上の世代の、いまや成功しつつある、ネオ・ジャパネスク的潮流のなかで登場した作家たちは、多かれ少なかれ、政治的にまで装飾された、死やエロスの主題を前面に押しだしている。

反して、ミヤケマイの画面には、たとえそこにあのブリュッセルの妖術師、ジェームズ・アンソールばりの骸骨がひそやかに描かれているといっても、ぜんたいが醸しだす印象や画面がもつ空気は、もっと静かでおっとりした、典雅をたたえている。

そこには、静止した時代の、澱みの上澄みのようなものすら、呼吸している。難しいのだが、それをこそ様式化といって、ここではいいように思われるのだ。

狂気じみた集中と絵画的作業とが、恬淡と、さらりと、死を覆い隠してはいるが、二十一世紀的な日常と、時空を越えた「日本の日常」が交わる時に、またひょっこり死が顔をのぞかせるのが、ミヤケマイの絵画空間だ。

いずれにしても、だからこそ想起される時代は、安定した栄華のなかに激越なものをこめたバロックか、むしろ、それすらも精巧な形式として消化吸収してしまった、ロココなのだ。

いささか乱暴に、彼女に先行するネオ・ジャパネスクの作家たちを、今日ヨーロッパのどの美術館に行っても、その大作大画面と枚数で、圧倒させられる、ルーベンスにたとえてみよう。

すると、ミヤケマイじしんは、静謐な光のなかに頓死したワトーや、弛緩した優雅さをモットーとしたあの甘美なる絵師、ブーシェにみえてくるのは、ちょっと楽しい妄想ではある。

そして江戸のそれを見てもわかるように、バロックとロココは、その区分がいかにも難しく、ひと続きの流れのようにどうしてもみえる。

むしろ、こうもいえるかもしれない。

ひと続きにおもわれる、バロックとロココのなかで、時代的はいささか錯綜しながらも、死のエロティシズムの描き方には、やはりふたとおりのやり方がある、と。

[ 死せる事物たち ]

ミヤケマイの絵画は、物質的なフェティッシュに彩られている。

それは、彼女が、日本画のほんらい持っている、表具や軸装やらの物質的装飾性を、より広い、個人的なかたちで敷衍するからだけではない。

ひとつには、そうした装飾性は、いっぽうで標本箱のような体裁になることで、そしてジオラマのように不気味な、見られるための装置の厚みを帯びることで、私たちじしんの見るという快楽そのものの死を、宙吊りにしながらも物質化して、見せつけてしまうのではなかろうか。

たとえば、鳥箱のような、賽銭箱のような、ミヤケマイ風の立体なる軸に投げ込まれた携帯電話が、こうも見事に現代の風俗的腐臭を払拭されていると感じるのは、私だけだろうか。

それは取りも直さず、彼女が「見ること」の死と、「見られる事物」の死を、絵画の時空に生起させ、交錯させているということ。

ここでは、時がきちんと実体として止まっており、テーマや装飾性を超えて、死したものとして、どこにも所属せずに、作品のなかに浮遊している。

時の物質化、フェティッシュ化、といっておこう。

そのためには、さらに、躍動する虎も鳳凰も竜も、はたまた虚ろな目を置物のように向ける猫たちも、事物として、きちんと殺されているのだ。

そうしてそれらは、画面のなかで、特権的に見られる対象として甦り、再生の荘厳のなかで、第二の生という意味での絵画を、まさに生きつつあるのである。

これをロココ的日常といわずして、ほかの何になるだろうか。

 これこそが私が思うには、現代の生活感覚には、もはやほとんど通じてはいないと思われる、いわば遠くに過ぎ去った、元禄やら、文化文政やらの、江戸の空気を彼女の画面がリアルに醸成している、その秘密ではないかということだ。

[ 絵画の芳香について ]

不勉強で、彼女が知らずか意図してか、典拠とか本歌取りに使っているものがあるのかないのかも、私にはちょっと判別はつきかねる。

あるいは四条円山派あたりも感じられるし、ロココといえばあの若沖だろうが、私には、彼女の動物たちは、もっと宗達の犬のように、何気なさそうで、世界の裏からぬっと出てきたような凄みがあるように思われる。

芳香とはすなわちエロス性のことだが、それにしても私にとってもっとも気になるのは、彼女の画面の余白、その空間を跳梁跋扈する、無数で無限の、声のざわめきや視線のうごめきだ。

もう敢えて、いうまでもないとは思うのだが、それこそが、彼女の現代性、絵画がこの時代にどう見られるかの眼差しさえ、あらかじめひっそりと、殺戮してあることの証ではないだろうか。

陳腐な現代の眼差しを巧妙に殺戮する、幾層にもフェティッシュ化された、ロココ的平面、、、。

最後に言わずもがなの、絵画とは見えないものを描くことだという、少々気恥ずかしいテーゼを持ちだしてみよう。

そうであるならば、私には、イメージの広がりを無邪気に楽しんだような、あのポール・クレーの、そのじつ、世界を見えない裏側から影としていかに描こうとして腐心したか、その恐るべき計画性こそが、思い出されるのである。

彼女には、大きい、大器として育って欲しい、というのが、この企画を支えるすべての人の情熱のよって来たるところである。

来たるべき時に。

彼女の絵画に、私たちじしんの日常を生きる眼差しが、万華鏡のように写りこみ、瞬時瞬時に死と再生を繰り返しはじめる時、ミヤケマイの芳香は、宇宙永劫に飛翔するにちがいないから。
(終わり) 

(2006年9月、おそろい展によせて)

(c)2003-2007 MAI MIYAKE All Rights Reserved.