TIME FOR TEA
bunkamura GALLERY
2004/08/07 - 18
  2004年夏吉日渋谷にて

夏生まれのせいか
夏の始まりは何時もただ嬉しく
夏の終わりはいつも何か失った気がする
光が濃ければ影も又濃い。
鶏頭の華が、鳳仙花に百日紅が
カーニバルの到来を知らせる。
何処かの誰かの気持ちのように
わき起こる入道雲
どんどんふくらみ、
反比例に下に立つ私は、
今一度小さくなって
大きくなったら何になるのだろうとぼんやり思う。
いったい何回目の夏まで私は同じことを思うのだろうか
青い空を黒いひまわりの花心が、黒い鳥の羽が切り取って行く
虫たちが、恋せよ乙女命短しと、娘達をせき立てる
突然虫達のお節介な忠告が止む、鳥も有線をあけて
スコールの前に跪く、彼女の裾をもって登場するのは土の香り。
日本はもはや熱帯だと、誰もが気がつき始めている。
気候が変われば生態圏も替わる。
熱帯には熱帯の生き方がある
きっと沖縄みたいに離婚率も寿命も延びて
沢山生きて沢山愛して沢山傷つく
そして様々な形が入り交じった
複雑な美しい色をした
子供達が台頭して
日本というジャングルを生き延びる

その子達は3時にお茶を飲むのだろうか

 

 

 

お茶と遊び
私が子供の頃は人間だけが遊ぶ生き物であると教わった、しかし最近はカラス
もイルカも遊ぶ事が解ってきたらしい。
確かに、遊びはパンを選び、DNAを再版し、生き残りに命をかける、そういっ
た生き物としての真っ当な王道から見るとだいぶ無駄に見えるのかも知れない。
しかしながら無駄な事が多いということは豊かなことではないだろうか。
遠回りに見える寄り道が、意外な形で生き残りへの近道を示す事がある。
遠回りして近道を行く。
昨日やおととい遊びの文化が出来た国にはまねできない、奥義である。
いつから日本人は遠回りをしなくなったのだろう。

そもそも日本人は遊びの天才だとおもう、見立てなどその最たるで(私の浅は
かな理解ではですが)「00とゆうことにしておこう」
もしくは「xxのつもり」という、ある情報を共有している人達だけにわかる
お約束事(ゲームのルール)なのだと思う。
子供の頃やった「なんとかごっこ」にほかならない
何とかごっこと聞くとアドレナリンが騒ぐ人は
非現実や遊びが大好きな日本人の子孫にちがいない。
お茶室や停め石からお祭り、夜ばいに、辻斬り、無礼講、泥巡、はたまた、
物まね芸、コスプレ、イメクラに至るまで日本人はこのごっこが大好きである。

お茶の世界にその見立てが残ったというのは
面白いと思う。古の人々は人間が最も恐れる死のレプリカである睡眠時に、最
も無防備になると信じていた。その睡眠時になにか禍々しいものに
支配されるのを恐れて(特に僧侶の人たちが魂が無防備な時間を短縮する=眠
らないために)そもそもお茶は開発された。
  眠るというのは体や健康のためには良いのは現代科学においては自明のこと
である。邪悪なものから逃れるために睡眠時間を減らし逆に命を削って(邪悪
な死に)歩み寄る人間の行為は滑稽だろうか?
邪悪なものを恐れなくても、人はおそらく生きてられるし、
お茶を飲まなくてもおそらく人は死にはしない。
けどそこにはカテキン以外の見えない加護があるのではなかろうか?
  3時の、食後のお茶の時間が生活から無くなってどれぐらいたったのだろう。
縁側でいつもお茶とセットの長い無駄話を聞かなくなってどれぐらいたったの
だろう。そんな無駄な時間が豊富にあったころのほうが、守られている感じが
したのはなぜだろう。

電車中つり


↓会場風景















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